昭和41年07月22日 朝の御理解



 「真にありがたしと思う心 すぐにおかげのはじめなり。」

 真に有難いという、そういう心でおかげを頂き止めていく訳でございますね、その真に有難いという心の、ま追求が信心だという事にもなります。ですから、その真に有難いという、ま前提としましてですね、真に相済まんという私、そこから私は有難いとか、勿体ないというのは生れてくると思うね。有難くなりゃおかげ頂くんですけれども、有難く有難いと分からせて頂く、感じさせて頂く前にまず相済まんという。
 私、昨日新聞に心の、乞食と言う様な事を書いてあった。一軒一軒門に立って貰いに歩く訳じゃないのですけれども、それと同じくらいに、人の物でも見りゃ欲しゅうなる、ほんな心の中では、あれも欲しいこれも欲しい、あぁあって欲しい こうあって欲しいと、これが心の乞食ですよね、やはり。欲しい欲しいと心の中にいつも頂戴しておるような姿なんですから。
 ですから神様が御覧になったら、もう本当にたぁんと私共がお願いをして、お頂戴をしておる姿は、本当にもやはり乞食の姿に見える、られるのじゃなかろうかとこう思うね。ですから皆さん、本当にその心の乞食的なものを、自分の心の中からですね、ひとつ分からして頂かなきゃならん、そこから私は、資格の無い私と言った様な事が、クロ-ズアップされてくると思うですね。心の中に。
 第一ですね、不平不足どもいう資格が無いんですもん、私は人にいうて聞かせるなんて、もうおかしくて、もういうて聞かせる資格が無いんですもん。大先生の様な顔してからですね、あぁじゃこてこうじゃこてそんなこつでどうすんの、と例えば言う様なです、事をとてもいう資格は無いのですもん、私が心の言わば形はどうか知りません、ね、立派なお父さんのような風しております、お母さんの様な風をしております。立派な社会人のようにしておりますけれども、一歩自分の心の中に踏み入った時ですね。
 心の乞食であり又乞食的 心の乞食的なそれに匹敵する者、まぁ心でいつも殺人を犯しておる様な、殺人犯人である場合があるかも知れません。心の泥棒であるかも知れません。乞食どころは生やさしい方である。もっと深刻なものをです、もつと悪らつな物を、自分の心ん中に発見する時に、本当に親鸞上人様ならずとも、本当に自分の様な極悪非道の、いわゆる大悪人は又とあるまいという事に、成って来るんじゃないでしょうかね。けれども、その真に有難しと思う心が、すぐにおかげの始めでありですね。
 本当にそういう心を頂かせて頂く為に、どうでもそこんところを自分で、私、気付かなければ駄目だと思うんですね。今日は皆さん、どうでもひとつ、資格の無い私と言う所を、ギリギリ分からしてもらって、とても不平不足だんいう資格があるかお前に、ね、そこから必ず勿体ない、有難いというものが、私は伴うてくる。それが限りなくおかげを受けて行くんです。ね、限りなく深い、広い意味合いにおいてです、私の様なといわゆる心の乞食である事を、自分に分からして貰って。
 そういう乞食のような私にでも、神様がこのようなおかげを下さっておるという事からしてです、ね、勿体ない事になるんですよ。そこが分かると。ね、大悪人であったと、自分で言っておられるのは、親鸞上人様がですね、教祖様でも仰っておられましたね、無学の百姓だと、何も出来ん分からん、何も分らん私だと、ね、そこから私は言わば無資格者、何の資格もない私と言った様なものを、お感じになったからこそ、天地にもつながるような、有難い勿体ないと言う様な、深い有難いやら勿体ないが。
 心に感じられなさったのじゃなかろうか、と私は思うね。そういう日本一の悪人といったような人に、の話を聞いたり、そういう人のおかげでというて、その人を生き仏様のように言ったんなら、親鸞上人の事をいうてもそうなんですね、もうあげな大悪人とは付き合わん、とは誰でもいうてない、そこが分かれば分かる程、そのいうならば謙虚とでも申しましょうかねえ、いわゆる実意丁寧そのもの姿、そういう姿にです、私共はおかげは集まってくるもんだと思うですね。
 真に有難いという心、ね、なる程真に有難うなりたい有難うなりたい、先ずおかげ頂いたら有難くなれるだろうというのでは、いつ迄たっても真に有難いというのは生まれてこない。真に有難いというのは、いわゆる無資格者吾という事なんだね、今日という今日はです、とても子供達にどうやこうや、あぁそげな事っていいもんかとか、よかとかという資格はない。私今あの、今朝の御理解で頂いたのを、今そのたちがけです、今もあちらから風が入るんですが、あのガラス戸がちょっとこう開けてある。
 今日はあのう小学校が海水浴に参ります、学校が全部それに家族からも一人ずつ、付いて行かなきゃなりません。も どうでしょうか、今朝も六時何ぼでこっから行くようんなってます。でその栄四郎があの、椛目でちょっと見た時、見るとご飯頂きよるのが分かる、足を横にこう上げてから、ご飯を頂きよります。それば見て家内が何んともいよ、何ち行儀の悪い事ねぐらいは云いそな、いやよかのに気が付いておるのかどうか知らんけれど、まずそんな格好でその、ご飯を頂きよる訳ですね。
 腰掛けてから、腰掛くりゃよかばってん横ん方に向いて、足はこう投げ出してから、ご飯を頂きよる。何と行儀の悪い事をだろうかと。そういう時にです、私が丁度自分の心の乞食を、感じておる時でしたもんですから、とてもとても私の行儀というものは、あんなものじゃないと私は思ったです。ね、とてもねえ、私の心の中の行儀というものは、足投げ出してご飯を頂きよると言った様な、まぁだそんな生やさしいものじゃないとね。だから皆さん、ここんところをですね。
 しかしいわなかったら、何時まっでん分かるまいと思うのは、あれはなまじっかその昨日も、ある何ですかね、盲唖学校の先生という方が参って見えられました。人間関係の事で、女の先生です。それがその教育でも信仰でも、信ずるという心からしか良い教育は出来ない、信仰でもやつぱりそうでしょうというて、ま、信心は初めての方の様でしたけれど、そう言っておられましたね、けれどもですね、教育もやつぱそうでしょうね、信心もなおそうですけれども
 信心とは信ずる心といわれる位ですから、ね、それどこじゃないですけれどもね、あの信心の場合はね、例えば生徒なら生徒を信じて教育するという、その教育する通りにしかなつていかんので、教育する事が、こうあって欲しいという風に教育する、そうある人だけがその、いうならなんでしょうけど、信心はね、そこへ参りますと、おかげが非常に広いんですよね、例えて申しますなら、子供が行儀が悪い、ね。何ちいう、行儀の悪い事かというて、怒る前に、自分自身の心の上を思うた時に。
 自分はまぁだ、まぁだあの位な事だんじゃないというですね。行儀が悪い自分を発見して、神様に相済まん事をと、お詫びさしてもらい、私が改まらして頂く事そこを。ね、域を出ますとですね、私が助かるだけではなくて、いわんならんでもです、その子供も助かっていくだけのではなくてです、そこから有難いという心とか、勿体ないという心が生れてくるんです。いわゆる相済まんという心が、生れてくるからなんですよ。
 心があらゆるおかげを頂けれる、そのおかげの広場というのが、自分の心ん中に感じられ、頂けれるのです。そこに教育と信仰の違いがありますと、いう事をですね、お話したんですけれどもね。ですから、例え子供を教育すると、なる程もう本当に、もう子供にそげ-んいう、その躾をしなくても、よそに行った時に親が恥かかなん、おっちゃんが見えたけん頭ば下げなさい、ほらお早ようございますばいいなさい、それでもそりゃもう、キチッとやるんです。
 ま、まちっとやってからちいうて 幸せじゃないでしょうがね。成程それも出来これも出来すりゃ、尚更有難い事ですけれどもね、ま、そう言う様な場合です、私共のはまず自分の心の乞食であるという、乞食的なものをです、ね、又は自分の不行儀という事がです、自分の心の上に、不行儀というものであり、自分という者不行状である自分であると言う事をです心ん中にね、人の見た目には、そうじゃないかも知れません。
 けれども神様が御覧になり、自分がギリギリ自分という者を、見極めた時にです、あのくらいなもんだんじゃない。行儀の悪さというものを、自分は感ずる時です、いう資格はないでしょうもん、ね、そこで不平不足もいわんです又、不平不足をいうな、不平不足をいうなというだけではなく、それを辛抱するというのじゃなくてです、いう資格はないと、これは自分をですね、何と申しますかね、自己嫌悪と言った様な事があります、ね、自分を例えば下げすむと、それとはちょっと又違うんです、ね。
 私は、私がいうその無資格者と、いう資格の無い私という、それはですね、その真に有難いの それに繋がっておるものでなからな、いけないのです、ね、金光様のおかげで、こんことが分からして頂きよるんですと、ね、もしこれが、私が金光様の御信心頂いてなかったら、もう一生心の乞食で終ってしまうでしょう、というところのものが、これにこうつながっておるところにです必ず、いわゆる本当にそういう私に、お父さんというてくれるんだと、先生と皆さんがいうて下さるんだと。
 又立てて下さるんだと、にも拘らずこういうものを、身に付けさして下さるんだ、こういうものを食べさして下さるんだというですね、そういう私にこういうおまかないを、頂いておるんだというところから、有難いというものが、勿体ないというものがです、ね、心から頂けてくるのです、ね。その先に私は、真に有難いというのがあると思います。そういう心に、又おかげを下さる。そのおかげが、なる程又勿体ない事にもなり、有難い事にもなる。ゆえに真に有難いという心は、真に有難いものを生んでいく。
 又なお真に有難い心に、又、より真に有難いものが伴うていく、日本一の極悪人と、言わば悟られた親鸞上人様を、誰しも言わば処刑台に引っ張っていったものはなかった、ね、あの極悪道の、その、くそ坊主だと言った者もなかった。それこそ、当時の親鸞帰依者達は、生き仏様に崇めた。ね、様に私共は信心によってヾす、言わば一大悪人であり、いわゆる心の乞食である私共を、発見さしてもろうて、とてもとても私が言ってもんなら、云うて聞かせるてんなんて、ね。
 不平不足なんかいえれんいうなんて、もそういう資格の無い私であると、いう事をですね、分からして頂くところから、不平不足の無い生活、いや不平不足をいわん、いわんで済む生活。ね、そういうおかげを頂きたいと思います。 今日はギリギリ、ひとつそこんところにですね、とにかくこげな事でんいうたりしたり、ね、する資格はない私であると、そこから限りなく助けられておる自分-をです、いよいよ有難いものに、勿体ないものに、つながらして頂けれる、おかげを受けられると思うですね。              どうぞ。